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7.松下嘉平衛の子孫は
どうなったか?
山内一豊との関係は
富永公文(とみなが こうぶん)
浜松市頭陀寺町に松下屋敷が、明治38年までありました。この屋敷の主人は、江戸時代の終わりごろ、代々松下嘉平治を名乗っていたため、この屋敷は、松下嘉平次(治)の屋敷だと地元の人々は呼んでいました。もちろん、先祖は松下嘉兵衛之綱でありますが、この松下加兵衛と嘉平次は、別人です。 実は、戦国時代に秀吉が、まだ木下藤吉郎という名前さえなく、「猿」とか「猿之助」とよばれていたような放浪時代に初めて武家奉公した家が、この松下加兵衛の家だったのです。
そのとき、松下屋敷のあったところには、頭陀寺城という戦国武将、といっても今川義元の家来の家来というような地位ではありましたが、松下氏がこの地方に勢力をもっていました。
猿(秀吉)は、今の馬込川のほとりで松下加兵衛に拾われことがきっかけで、松下家に仕えることとなり、武家奉公するようになったと、『太閤素生記』(たいこうすじょうき)という本にくわしく書かれています。
しかし、この本の中の松下加兵衛とは、之綱の父で、源太左衛門長則としたほうが正しいといえます。なぜなら、松下加兵衛之綱と秀吉は天文6年(1537)の生まれで、同じ年であるからです。 秀吉がなくなったあとの江戸時代になって書かれた本ですから、まちがいは他にもあります。秀吉が仕えたときの松下氏の城を久野城としているくらいですから、松下加兵衛が晩年になって秀吉からもらった遠州久野城(袋井市)と取り違えていることからみても、松下家の父と子の名前は同じ松下加兵衛ではありません。
また、地元に人は、松下屋敷に秀吉が仕えたことは知っていても、その時の主人の名前と、松下屋敷の子孫が名乗った松下嘉平次をいっしょにしているように考えられます。
それはともかく、松下家はどうなったか。松下加兵衛之綱には、二人の男子がいました。長男は、暁綱(あきつな)といい、下に15歳はなれて、のちに大名になった次男の重綱(しげつな)がいました。長男は病弱であったため、家を継げなかったと伝えられていますが、本当の理由は定かではありません。
暁綱は頭陀寺の松下屋敷をもらって、この地に土着して、庄屋となり、頭陀寺松下家の祖先となりました。墓は西伝寺町の西伝寺に立派な墓があり、代々の墓地となっています。そして、今、この子孫は東京に住んでします。
一方、松下重綱は、之綱が慶長3年(1568年)、63歳で久野城において死んだのち、天下分け目の関ヶ原の戦い(1600年)には徳川方として、掛川の山内一豊らとともに戦い、茨城県の伊奈町小張(おばり)の城主をなりました。そして、当地に「小張松下流綱火」というカラクリ花火を文化財として残しました。
それから重綱は、烏山(栃木県)、二本松(福島県)と栄進し、5万石と大名となりましたが、そこで没して子の松下長綱は、同じ福島県の三春城、3万石とされました。
ところが、徳川幕府は徳川家光の代となり、幕府の力も安定してきたため、豊臣秀吉に関係の深かったいわゆる「外様大名」をとりつぶすたくらみにより、三春の松下氏もとりつぶされて、妻の実家である親戚の土佐(高知県)の山内一豊の子孫の家に一時預けられました。
しかし、長綱の子、長光(ながみつ)の代から、徳川幕府の旗本として復活し、3000石の領地ともらい、幕末をむかえました。さらに、明治維新の時の戊辰戦争においては、領地のあった、伊豆修善寺を拠点として、官軍(西軍)に味方し、箱根で幕府側の軍隊と戦っています。
この大名になった松下家の子孫は、現在、埼玉県にすんでいて、先祖が豊臣秀吉からもらった手紙を家宝として大切に保存しています。
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| 富永 公文氏 |
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